目から鱗

療育センターにて、心理検査をした時のこと。
赤い丸が3つ。大中小と書いてあり。
先生が、一番大きい丸を手で隠して、
「どの丸が大きい?」
と質問。
普通なら、中小のうち、中を選択するでしょ?








息子、先生の大を隠している手をどかし、
「これ」
と言った!確かに!それも正解だ!


最初から大を隠していたら、中を選択したのかも知れない。
でも、最初に大中小を見たものだから、息子は大を選択したのだと思う。


心理検査、わたしは少し離れたところから、何もリアクションをしないように見ていた。
この件以外にも、
「あーなるほど、こういう考え方があるんだ」
と発見した。
息子がすることは、必ず何か理由がある。それが少数派だったり、一般的な想像力を越えているだけのこと。改めて思った瞬間だった。





今日、なんだか落ち着きのない息子(それでもおとなしい性格だから、まあたいしたことはないが)。
教室が終わった後、車道に向かってフラフラ。
「〇〇ちゃん!ママのところにおいで!」
と叫んでも、行きそうになり、体で制止。
すると、お友達が療育の勉強会できいたことを教えてくれた。
「(特性として)遠くから声をかけても、周りの音と混じって、入らないんだって。
近くに行って、静かに話しかけるといいんだって。」
彼女は、その勉強会で、その周りの音と混じって、入らない状況を体験するために、音を大きくした補聴器を付けてみる、ということをしたそうだ。
すると、雑音が入ってきて、話しかけている言葉が聞こえなかったという。


わたしも以前、親子教室の勉強会で、きいたことを思い出した。
普段わたし達は、入って来る情報の中から、必要な物を無意識に選択している。聴覚でも、視覚でも。
しかし、彼等は、そういったことをしないのだという。だから、何か新しい刺激があると、そちらに気が向いてしまうのだ。
まさに息子は当てはまっていて、電車とか余程夢中な物に取り組む時以外は、集中しない。
ただ、静かな環境にいる時や、真っ正面、真横から話しかけた時は、比較的指示が入る。

知識として知っていることと、それを実際に体験してみるということは、説得力が違う。

最近でこそ、絵本を読んだり、おもちゃで遊ぶ時は、自分からテレビを消すようになっている息子(以前は、テレビがついていないことが不安であった)。
それでも、今の住まいでは、食べる、遊ぶ、寝る、という空間を区別することが難しい間取り。どうしても集中出来ない様子。
新居は、幸いにも、各部屋が独立した作りで、DKは食事を食べる場所として利用出来るだけの広さがある。そして、DKからはテレビは見られない。
これで、今は何をする時間なのかの区切りが付くようにサポート出来るのでは?と期待をしている。




療育を利用すること、更に言えば、息子の特性を理解し、受け入れる、ということは、レッテルを貼る行為だとは、わたしは思っていない。差別と区別は別物。
子どものことを理解し、親として子どもにとっていい方法で接していこうと思うのは、定型発達(健常者という言葉は誤解を招いたので、今後はこちらを使う)の子どもでも変わらないだろう。
息子は、育児書や周りのお友達や小さい頃のわたしと、考え方や想像力が違うだけのことなのだ。



息子に障害があるかも、と言われた頃は、現実を見ていなかった。
わたしは今までの人生で人よりは障害、ということを考える機会があった。障害に対して特別な感情はなく、少数派なだけ、と理解をしていた。そのこと自体は今も変わらない。
でも、早期に適切な療育(社会適応するための訓練)を受けることで、息子がこの先、生きやすくなるということは理解はしていなかった。それどころか、定型発達児と障害児は早期から同じ場所にいることが、お互いの理解を深め、偏見をなくす方法と信じていた。

幼稚園も保育園も、現実問題として、障害児を受け入れないこともある。障害の種類、程度の問題で仕方ない場合もあるが、それもきかずに断ることが多いときく。

わたし自身も、保育園見学時に、
「わたしは親より子どもを第一に考えている」
と言っていた園長に、
「この子は将来大学にも行けない。就職も出来ない」
と自信満々に言われた。

教室の先輩や友達の話をきいても、やはり、現実として。
定型発達児に比べて、就園、就学の選択の仕方や幅が違う。早期に訓練(当然ただ遊ぶだけではないから、本人は楽しいだけではないこともあり得る)が必要。
軽度故に、何もいわなければ、失礼なやつ、という程度なので、誤解を招いたり、いじめの対象になることが多い。
得意なことを伸ばしてあげることで就職して実力を発揮するが、周りの理解が必要(指示する際に注意しないとならない)。


今思い付いただけでも、息子は少し遠回りをしたり、人より多く努力をしなくてはならない。もちろんわたし自身も。
そのことに目をむけて覚悟をするのは、息子に劣等感を持たせることとは違う。わたしは、大丈夫なんて無責任なことは言えない。
障害は治らないが、緩和は出来る。ある先生が仰った言葉。


果汁100%のジュースも、60%のジュースも、10%のジュースも、ジュースに変わりはない。どんなに薄めても、水にはならない。


わたしに出来ることは、言われなければ水かと思う程に薄くすることなのだろうと、今は思う。