最近考えること

わたしは、何のために生を受けたのか
結論はこういうことだ。


伯父の件は、わたしの頭の中の一部では理解はしているが、一方で現実的に感じることが出来ない。
祖母の時と違い、死の覚悟をする時間と、もうすぐ死を迎えると言う実感がなかったからかも知れない。
でも、きっと、横たわっていた伯父は、わたしの知っている伯父ではなかったからだ、と気付いた。
癌が見付かってから、わたしは伯父と彼岸の時の一度だけしか会わなかった。
その時も、伯父はいつものおちゃらけはなく、大人しく、途中で横になる、と別室に行ってしまった。
だから、横たわっていた伯父は、伯父には似ているが、伯父であるとは強烈に認識は出来なかったのかも知れない。


夜な夜な死に関わるサイトを渡り歩いたりした。
昨日は無理矢理に母に来て貰い、話をした。(その話はまた別項でする)


でも、やはり、頭では理解していても、日常生活に追われると、現実的ではなくなる。
ある意味、息子の存在が大きいのかも知れない。
ただ、反対に悲しみにどっぷり浸れない苛立ちもある。


しかし、夜になると、どうも眠れなくなった。単に眠気が来ないのもあるが。
祖母の時は、わたしの2代上であったし、母とわたしは共通して
「おばあちゃんも死んだんだから、死ぬのが怖くなくなった」
という気持ちになった。
今回、母はどう感じているかわからないが、親の世代に死が近付いてきたことの恐怖を感じた。それは、必ず眠る前にやって来る。だから眠れないのだ。


わたしは子どもの頃から自分や両親の死の恐怖に怯えていた。それは怖くて強かった父方の祖父の死や、友達の早すぎる事故死などがきっかけだった。
夜中に両親を起こしたり、一人部屋になっても両親の寝室で寝たりした。
電気の小玉が火葬を連想させたり、暗闇が棺の中を連想させたりしたので、電気をつけて寝たことも多々あった。
それが結婚して家を出るまで続いた。
厳密に言えば、それ以降も続いていたが、両親と違い、旦那はそのことを無視するので、他のことをして気を紛らわしていた。更に、祖母の死で一時的に解放された。



だが、また、伯父の死で復活したのだ。伯父の死をまだ全て受け入れていないのに、そこだけ。
今は、自分の死は恐怖ではない。きっと祖母の死での考えのままだ。
ただ、両親の死は以前にも増して恐ろしく感じる。急にその時までのタイムリミットが近付いたように感じた。
もう、誰の死も見たくない。出来れば自分が一番に死にたいくらいだが、それは親不孝だし、少なくとも、息子が就職するまでは出来ない。
ちなみに、人の死の恐怖はネクロフォビアというらしいので、稀ではないのだろう。





そして、伯父の死後、2週間そんなことを考えているうちに、もし両親がいなくなり、息子が独り立ちしたら、わたしは何のために生きているのかわからなくなるのではないか、と思った。


当然、わたしの今やるべきは、息子を育て上げることである。
しかし、それまでのわたしは、何かに向かって生きてきたわけではない。
人並みに夢はあったが、またがむしゃらに没頭した挙げ句に全否定されるのが怖かった。
ただ、何時間、何日働いた、ということとボーナスの査定が生き甲斐で、それでしか、自分の価値を確かめることが出来なかった。



だが、間違いなく、わたしには、祖母や伯父、両親の血が流れている。
わたしは何をするべきなのか、そしてわたしに、その答えが出せるのか?
正直言って出す自信などないのだ。